自尊心のもっていきかたを間違えて、「人にどう思われてもいい」ひいては「人を不快にさせてもいい」になったら、中身がよくても届かない。卑屈や自虐はたしかに面白いけど、それだけがいちばん外側だったら、世の中の人はそんなに無条件に優しくもなければ興味の感度も割いてはくれないから、間口を狭めてしまう。ぼやきが芸として成り立つには、基本的に愛されてなきゃなんないんじゃないかなって。
保坂和志がネガティブな人ばっかの小説は面白くない(ざっくり)って何だったけかに書いてて、漫画読みのともだちもリアルなネガティブに金も時間も使いたくないつってて、後者は好みってのもあるけど、なんつうか表現もニンゲン同様に愛される要件があって、そこを否定したら、下手すりゃもったいないのかも。愛されメイクとかモテカワの愛されじゃなくて、少なくとも風呂には入ろうレベルで。礼儀と少しのかわいげ。
純文とエンターテインメントではその辺の心の持ちようが違うのかもって気もするけど、でもやっぱ仕事をして食べていくにあたって、どんなことにも通ずるような。自分のしたいことが中途半端でニッチすぎなのかもしれない、逆にありふれすぎていてもう要らないのかもしれない、んー、まあいいや。しかしながらやっとこさでこのスタンス。中身が馬鹿すぎる楽観主義だから、見栄とか保険でぐずぐず言ってたのよ。そう簡単に変わるものでもないけどさ。