自分が撮ってきた写真をながめて、私は私の撮った写真がとても好きだと思った。それはたぶん私の目で私が見たくて見てきたものと重なるからで、そりゃあ当然のことだ。父は「普段を撮っているね」と言ってくれた。私は普段の中にしか立っていないからそれは間違っていない。ただ、写真に残っているものは、それでも特段の気づきや心の動きがあるということを私は知っている、撮ったのは私だから。誰にとっても、シャッターってそうやって押されるものじゃないかしら。その小さな小さな心の動きを自分ではない人に感じてもらえることができれば、表現と呼べるのかもしれないけれど、たぶんそれには満たない。個人的な思い出の情景でしかない。むしろ充分だ。
それでもあんなにたくさん写真を撮っていた日々があって、今はそうでないというのは、どうしてかといえば、撮ったものを褒めてくれる人がいたから。私はその褒めてくれる人のことを尊敬していたから。尊敬する人が「いいね」と言ってくれたら嬉しいじゃないか。私は犬だし。その人がいなくなって、撮らなくなって、こりゃあ単なる怠け者だ。ふてくされた犬をいつまで続けるんだ。
あと、フィルムカメラが高くつくようになって、かといって未だになんだかデジカメには慣れないんだよなあ。