都会に馴鹿とか居ない

ただの言葉遊びです。とかいにとなかいとかいない。
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さて、猫自慢をされたからには、し返さなければ気が済まず、明日、あるいは三日後にまた珈琲を飲みにいくのでしょう。明日は降って湧いた半休日、今夜は内Pでも見て夜更かしかな。
「そぉれが、音楽業界ってもんなんだよ。な、そうだろ。」素面の人が暑く語っているのを聞いて「ふがっ。」と笑ってしまいそうになりました。
先週いただいた花を生けていたら、腐っていたらしくものすごい悪臭を放っていました。「ふがっ。」とえずきそうになりました。
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鼻濁音を推奨しようにも、もう時は平成の世。例えば「ら」抜きにはら抜きなりの利点があり、合理性や慣用はひとそれぞれのフィルターで漉して受け入れていくものです。
目下私の懸案は、「萌え」という言葉をどこまで受け入れるか。ひと昔前なら「セックスアピール」なんて言葉があって、もうその語感からむんむんと何かたちこめる、いうなれば肉感体毛感があったわけです。んが、今のそれはアピールを必要としない、感じる側に力点のあるコンセプトなんですね。ミクシにて「ワタナベアナよりイトウアナの方が萌えますって!」というCXアナウンサーに関する発言を読んでふんわり共感した折、一足飛びに詫び寂を感じたことによります。
「月みればちぢにものこそかなしけれわがみひとつのあきにはあらねど」
今日の空を「悲しい」と見上げた人がいたとして、今日の空が悲しみを表現していたわけではない。けれど「今日の空を悲しいと見上げた人」は恐らくひとりではなく、それぞれの理由をそれぞれにもたせたまま、その人たちにとって今日の空は悲しみの表象だ。「価値観と生き方」のような堅いものに対する意識をもてない/もたない、チカラなき(財力体力知力精神力)ものたちにとって「心向きと共有」がその瞬間の風向きになっているようにみえる。少なくともネットっつう室内遊戯では。(共有は、独占を選択したり断絶を感じたりするのも同じで、つまりその文脈で考えがちなんじゃろう、ということ。)これまた一足飛びな結論じゃが、軟弱ものの貧乏貴族が文化の一角を形成しておるということじゃな。
敬体→常体→じゃろ口調。どんどん面倒になってきた徴。