能町さんが14日に書いてた「ためし」のエントリーにうなだれながらうなずく。
赤坂真理ヴァイブレータが面白いんだけど、読み直す気になれないのはまさにこういうことかも。女性の書くくせのある文章にひっかかりを感じて、どちらかというとマイナス感情を抱いている、いやはっきり言うと嫌いなんだけど、そこを全否定すると身動きができなくなりそうな、そんな板ばさみをおぼえるわけで、その、まあうなずくだけなんですよ。ですよねって。文体の個性って話でいうと性別だけでなくひっかかることは多い。(主たるのはやっぱし女性特有のあの感じなんだけど。)町田康だとよくて、例えばミクシとかにいる「個性的な日記」を書く人だと、うわーっとひいてしまうのは、何だろう、クオリティの差というだけではなくて、やっぱり何かこちら側の「感情」の問題であるように思うんだよな。
そうすっと、価値の熟成を待っていられないのは私もそうなんだな、きっと。
こうも言える。その人が思う最も自然体の表現というのに、一切の模倣がないわけではない。むしろ最も自然体だからこそ、横目に入ってくる表現方法や情報を、意識やためらいを挟まずに自前のものとして差し出せてしまうんじゃないか。それってさじ加減がない分、怖いことだ。自分がやっちゃってるだろうことが怖い。個性的な、他人を惑わすようなリズムの文体の「我」の強さを込みでコントロールするには、やっぱしちからが要りますって。
ちなみに写真を撮るときはそゆことを考えなくもないけど、どっかでみたようなアングルだなって思っても「ま、いっか。」って方にぐっと気持ちをシフトできる。他人にとってどれだけつまらないもんでも、私がここと今を好きだと思えればそれでいいって思うことができる。総合的に日常生活の気持ちのバランスをとる役割でもあるんだろうな。