風邪をこじらせる発端のひとつである山登りのときの写真の現像があがってきた。みたものを撮ったから、記憶に似ているんだけど、写真って記憶ではないんだな。記憶とか記録とか、新庄剛志長嶋茂雄みたいな話じゃなくて。なんつうかその、私は、写真って、喋りたくなくて撮ってるというか、「みる」「とる」でも「おもわない」「かたらない」でいたくてしてることで。喋ってる自分も、書く自分も、そこに欲があるから、後悔やら鬱陶しさがついて回る。写真はうるさくなくて、ほっとする。自分を嫌わずにいられるなら、幸せってぇもんじゃないかと、そう言ってしまうと消極的な動機だけど、そでなくて、やっぱり、そこに私のみたいものがあって、みたいというかみていたいものを残すことができることこそが幸いだから、そのためにしていることなのかなとかなんとか。ゆくゆくはそんなふうに書けたらいいと思う。かいてるみたいに書くのは、書いても産めない。埋まらない。産んで満たす。写真がそうかというとそこまでそうじゃないんだけど、なんか手がかりのような気はしてる。
ほら、うるさい。