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旧友とデート。二人目がお腹にいるちゃんとした母。せっかくのランチの味が判らないので、食べ終わっても「ああ、美味しそうだった。」
かつての親友のよしみで某宗教の会合について行き、私は退屈しのぎに2センチ角の紙で鶴を折ったり茶々入れたり。勧誘されない予防線は張ってあるにしても、誘わずにいれない彼女と、逃げ腰を隠すのに必死な私の、まだ目に見えてはいない断絶が悲しい。長井秀和が筋金入りと知り、彼の心のうちを慮って複雑な気分になる。えらい人に「間違いない」とかいじられて、彼は嬉しかったのだろうか。芸人なら、あの芸なら、そうであって欲しくない。「どうせ俺が売れているのも組織票だろ。今後ともよろしくお願いしますね。バックにあんたらがいたら当分は、間違いない。」くらい内心で毒づいていて欲しい。そもそも芸能界では公然のタブーなんだろうけど。アサヒ芸能みたいなネタだな。えらい人が「思想や哲学のない国は滅びる」と言うてはった。哲学をもつというのは、「迷い続けること」だと私は思うので、ああいう「はい」の返事の揃うまっすぐな人たちの宗教には合わない気がした。どこぞに「1+1=2が誤りである可能性」を話題にして「あんたの話は何の役にたつのか?興味ないぜ。」と叩かれてたお嬢さんがいたが、哲学がどうこうってのは、有用性のある相田みつをトークなんかじゃなくて、そういう病的な問題意識から生まれるわけで、信じられる答えを探す行為こそが哲学なら、新興宗教の「これを信じろ」とすれ違うはずで。私には「はい」を揃える快感が恐ろしい。そういうのは音楽を聴いて、したい。一生が迷子で、生きることが探すことである方が私にはいい。世間体じゃなくて、私には、合わない。いつか判って欲しい。