猫であることよ

オダギリの先輩には猫田氏、歌手では猫沢さん、芸人の猫ひろしさん、そして家政婦の猫村さん。「猫」という字は名字にとって何か独特だ。
地名にとっての猫→http://www.glin.jp/nam/neko.html

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とりあえず、快癒には至らぬまでも、「痛くも痒くもない時間」(文字どおりであることよ)がいくらか戻ってきている。今シーズン中に痒疹(専門用語であることよ)が消えることは恐らくないだろうが、眠れない程の苦痛やら、指が体液で染まる不快感から脱したことは安堵に値する。「これで…、やっと…、眠れる…。」「パ、パパー!!」(寸劇であることよ)。指を血染めにするためにトイレに駆け込むのは情けないやらおかしいやら、ですから。
あらわれ、というのは「総合」の「一角」なのですね。私の思う皮膚科の最も中庸な治療方針は、ステロイドで症状のコントロールをして(プロトピックはどのくらいメジャーになったんだろうか。ていうかステロイドと同じであることよ)、日頃の保湿保護を怠らず、アレルゲンあるいはストレスの軽減に努める、というもの。ヤクザな患者である私は診察室を出たらお医者のいうことを忘れてしまう。忘れるというか結果的に逆らっている。我が身が大事なら専門科の言うことは最低限きくべきだ、と理解しつつ、だ。外的要因で起こるいわゆる感染症と違って、「自己」の構造がどこか破綻した結果で患いがあらわれるものの場合、ポンと蹴りゃニャンと鳴くというわけにいかない。アレルギー性疾患は免疫の話で(これは確かであることよ)、それは腸内定住菌に関わっている(皆が首肯するとは限らぬものよ)、と言うところもある。そうかもしれないけれど、それが全てではないだろう。一般的なお医者が間違えていないのは、対症療法という範疇は誤りようがないからで、一般的でない見解と云うのはその範疇というか見るスパンが異なっているから誤りかどうかを同じ物差では測れない。物差という言葉を続けて使えば、私のような気の短い患者としては、痛い時は「今」痛みを治めて欲しい、そういう物差で医者に向かう。今後、同じ痛みがあるとしても明日や来週の仕事をこなせる程度に治めてもらえればそれでいい。これって割に一般的なんじゃないだろうか。今、やりすごすことでこの先に取り返しのつかない増悪(憎悪ではなくゾウアクであることよ)が待っているかもしれないという不安を抱えてはいるがに。ひねもすのたりの海も嵐が来れば荒れる。波は月や星や風やもろもろで寄せ返す。あてらもそういうこと(よりも複雑かしら)で、皮膚の表面に起きていること、内臓で起きていること、神経で起きていること、もろもろあるけれどそれを紡いでわしがおると。(途中で書くのに飽きてくると大雑把であることよ)