うひひひうひひひ病

眉間とこめかみは「助けて殺して終わらせて」と言うけれど、本体である私の方はのんきなもので安穏と鼻歌で暮らしているというわけだ。
と、わけの判らないことをひとくさり。失礼。

自分の性格を勝手に鑑みる限り(統計上、誰が罹ってもおかしくないと云う意味でも)、うひひひひうひひひひ病にはなるかもしれないが、不安神経症とは縁遠そうな気がする。鎌状赤血球の人がマラリアに罹らない、みたいな予感。いや、単なる予感。癌にはなるかもしれないが、痛風にはならないだろう、程度。ところで、何の病であっても責任をとる権利を奪うのはどうかと思う、がほのかな持論ゆえ、39条周辺の問題にはもやもやしている。責任能力の裏打ちは常識的な判断力とか、自分がこう駒を進めれば一手先二手先はこうなるだろうと推し量れる標準的な力にあるようで、そういう前提って難しいよねと常々感じているわけですよ。犯罪ではないが、妻子ある男が素面で身代質入れして風俗につぎこむこともある。常識的な判断力がそこにあんのかと身内はつっこむが、個人が個人の財産を動かすのは自由であって借金の契約はどうにもならない。まあ、金の貸し借りでは、返済能力がないと個人なら自己破産のかたちをとって、手続きさえふめば支払いは免責になる。責を免れることは基本的には救済だけれども、そうただ都合よい話ではなくて(破産後は借金ができなくて、仮に貸借契約を結んだとしてもそれは決して免責にならない、みたいな細かい話はおいといて、ざっくり言うと)それだけの自由を失うんやね。基本は自業自得のルールやから、「煙草を吸いました→肺を患いました」は事前に情報が与えられているなら吸った私が悪い、となる。手前のものを損なう自由があるとも言えるし、今の自由の行使は未来の自由を賭しているとも言える。やったことを負えるとされる人間が最大限「自由に」生きとるわけですが、その中には電子レンジで獣を乾かす輩やらカードローンで火だるまになるのやら想定外の判断をするのも含まれとるんですわ。(中略)当事者でも専門家でもないから、んなこと言っていいか判らんけど、特定の病すなわち理性を失った獣は短絡な思考なんじゃないかと。寛解した人によればうひひひひって言ってる時も常と異なるとはいえ感情は動くしものを考えている、なんつうかどうであれリアルに生きている。たしかに異形に映るけど、それは生きることをみんなと同じ風に表現できなくなっている状態なんじゃないかと感じましたよ。もし、うひひひひうひひひひ病が生きる表現の病だとしたら、病を根拠に能力を否定して償う権利を奪うのはなんだか納得がいかない気もする。手錠のモザイクや気狂いって語を刈り取る世の中をいかがわしいと思っとるのと似た文脈。
これは法律や社会の話ではなくてただの与太。デス。こないだ消えた糞真面目な話とは別の話。
爪切りが行方不明。みかけたらご連絡ください。