うちのおとーさん、普段は真面目なんだけど、今までに何回か急に丸一日くらい行方不明ってのをやってて、昔は携帯電話とかなかったし、誰からも連絡がつながらないってのも、まあ、やろうと思えばできんわけじゃない話だけど、仕事放って消えるってのは社会的責任みたいのがちょっとあればそのハードルたるや、ねえ。周りは(というかおかーさんは)仕事でうまくいってないことがあるから逃げたんだって解釈をしてたけど、仮にそれもあったとして、でもそれだけじゃなくてもっと全部何もかもだったんじゃないかなって、さいきん思う。逃げるってのともちょっと違ってたんじゃないかなと思う。しかし、消えて、戻ってきて、という復帰段階の出力というか、平然と出社できる肝が、言い換えよう、無神経さがすげい。私は諸々のリカバリーにかかる労力が面倒臭くてそういうの無理。無断かどうかじゃなくて穴を埋める作業とか苦手。学校行ってるうちにもっとさぼっときゃよかったなあ。吉田修一の短編になんかそういう話があって、けっこう好きなんだけど、読み返して代替行為になるかなあ。一回、「毎日」から自発的に離脱してみたら、他の人がなんとかつけてる折り合いを、いっこ何か掛け違えてちょっとひずみのたまった状態をリセットできるかも、みたいな?毎度のことながら体調が思わしくないシーズンで弱気になっているのもあり。それこれひっくるめて「あー、転地療養してえ!」これか。

父の「蒸発したい」遺伝子が発現したのか、消えたい。でも私は消えない。
このまま緩やかに気ぃ狂うんちゃうかなあとかそういうことを考えては、言葉に出してみたところでげんなりとするし、誰かに見られたり聞かれたりしてよいものでもないから、なんというかあんまり人と話をできない気分。相対的に、客観的に、普通に、冷静に、今の自分を眺めても大きな問題は何もない。何もないはずのところがぬかるんで足が抜けない沈みそう。沈まねえよと思っちゃいるが、このまま頭の先までこの泥の中に浸かってしまいそうとも思ってる。体力云々を言っているけど、要は気力だ。今もし仕事を辞めても無職の焦りに耐えられるコンディションじゃない。毎日を続けることに、視野を狭く閉じて、目の前のつとめに向かえばよい。じゃが、それが。壊すのも壊されるのもいやだ。壊れたくもない。結局、「消えたい」に行き着くんだけど、私はそれをしない。我慢しよう。

考えすぎているのか考えなさすぎているのか。言い訳はみっともないが、ものをゆっくり想う体力がついてこない。客観的に、やっぱり自縄自縛なんだろう。なにごとも。判ってる、視野は狭い。ものを追うように生まれたら視野は狭くできている、野性ならね。追うものを見失って、ものがみえてないのは、食いっぱぐれるよね、野性なら。人間の社会生活にあって視野狭窄で前後不覚ってぇのは、あれか、やっぱ総合的に食いっぱぐれるな。
このまま生きること自体まで面倒くさくなるのが心配なくらい日常生活のぎりぎりまで面倒くさい。時間と体力…、が足りる環境に身を置く努力、か。
ちょっと整理しよう。
しかし、みゆびなまけものはかわいいなあ。
http://youtu.be/9ft1eODLxH0

自然にどうでもよくなってきたらそれがいちばんだ。
ツイッターのTLって、世界は主観で映っていることを単純なモデルとして示しているような気がするなあって思って、にんまりした。自分で選び取った自分が見たいだけの言葉の並びであることに自覚的であれよな。汝の縦縞は誰かには横縞である世界。もういっこ外に出れば、身をおいているそこだってそれが全てではないってことだ。もし気に入っているなら、この世界をできるだけ愛せってな。

こどもの頃から春が嫌いで、暑いのも寒いのも辛いけど、寒くもなく暑くもない季節はもっと辛い。何が辛いのか判らなくて、居心地の悪い思いをしていた。いつだったか、深海魚は水圧の高い深海から、水圧の低い(あるいはない)海面に連れてこられると内圧の高さに破裂してしまうという話を聞いて、なんとなくそれに近い感じなんじゃないかしらと思った。辛さに抵抗しようと握っていた拳のほどき方が難しいのだろう。歳を重ね、寒さ暑さへの抵抗力が弱まって、そんな不平も言ってられないのだけれど、それに多少は自分をいなす知恵だってついてきたはずだし、それでもなんだか春を迎えるのが下手くそで、ぬるむ空気にひるむ。単に過ぎていくものを寂しがっているだけかもしれない。
去年の3月10日の深夜に自転車を盗られた。一昨日、キーホルダーから自転車の鍵を外した。昨日はテレビとか新聞とかみれない自分を責めない狡猾さ。手元の生活をわざとらしく見ている。