あたまがいたい。たぬきで、あまいい。
十日ちょっと前にキャッチした風邪をだましだましだまし、…だまされねえぞ!、と、こじらせています。先週末の滂沱の鼻炎症状は収束したものの、この頭痛はおそらく副鼻腔炎。鼻はちょっと詰まってるくらいだけども、目とこめかみ周辺が痛くて痛くて痛くて、頼みのナロンエースを二回登板させたけど、全く効かず。逆に効いてあれならどんな激痛だ。めまいもするし、姿勢を変えるたびに波打つ痛み。むー。
体調がこんなだからか、発想が暗い。言葉にしても仕方がない暗さ。働きたくなさすぎて消えたい。気分ね。気分、あくまで気分。
私は人を好きになるとその人の好きなところがなくなるので、どうして好きになってしまったのだろうと悩む。好きなところがあるうちは好きにならなくてすむので安心だ。好きになってしまった人の挙動を確認することがやめられないけれど、好きでいることをやめなくてはと焦ってもいて、もうみたくない(からみないようにしようと思ったけど失敗した)。何を我慢してるのか判らない。なんかもう結局どうにもならなくて、こうなったら現実じゃないものに耽溺したい。けどその対象も特になく、「お前には目標とやらがあるじゃないか」って今けしかけても、心身の出力が落ちており、空ふかしすらできない有様。そもそも出力っつうもんが小さいから何とかブースター的なものを探して生きてこうとしてるんだけど、やっぱわが身でまかなえなきゃどうしようもあらしまへん。

ミソジ女にとって、ありきたりではございますが、カン松にはまりました。いわゆる実用みたいな話ではなくて。なんていうか「切ないって刹那いんだね。」みたいな痛痒い感想が出てきちゃうくらい、何これ、恋?ってぇのは半分冗談としても、こういう風に表現できるってすごい面白いし羨ましいなって。あの叙情が羨ましいし、ずるいと思う。ここで私小説って言葉を使うと単純すぎるのか。なんかほれ、作るものは全てフィクションであると割り切った上でも人間は隠さない感じが森達也をみてるのと似てて、似てないか、そこが似てるかどうかじゃないか、要は好きだな。あと(今までみた限りでは)私の嫌いなことをしてないところがいい。みてると、出てくる2人の両方に共感できることが多くて、不思議な感覚だ。ほんまにおもろいわ。インタビューも面白い。(http://sniper.jp/300special_issue/_8_1.php

んで、森達也の311、こっちでは4月公開か。

しばしば、「独特」という大雑把な評価をいただくことがある。私は凡庸を隠して隠してバレバレなくらい、俗人中の俗人なのですが、それはさておき。言ってくれた人は褒めようとしてくれているらしい。ありがとうございますです。でもね、独特って言葉はね、グルメライターさんが不味いものをなんとかうまく表現するために使う苦肉のワードなのよ。あなたがたもね、深層心理ではね、煮ても焼いても食えねえって思ってらっしゃるのよ。私、知ってるの。
て、ぐつぐつ思う。でも大丈夫。

散漫なブレストの話。
インターネットの人はみんな乳が好きみたいにしているが、現実の人は尻派ばかりである。まじでそうである、みんなそうである、なんなんだ。つまりそういう意味では、何の役にも立ちゃしねえ、と言いたい。
うちの祖母の癌は、左乳切除に始まったので、覚悟というか「いつまでもあると思うな」というふうに考えている。私は私のものが好きなので大事にしていきたい所存であります。そらさんもおっしゃっているように、脂肪の塊というわけではないので、痩せてきれいに収まるならそれに越したことはないが、さにあらず。むしろ将来的に重力に負けてくることを想定すると、醜く衰える覚悟もまた必要であり、今を生きる!っていうね、そういうあれですよ。
自然淘汰説を持ち出して豊乳進化論を説いている人がいたけれども、うちの家系を鑑みて、単に下着の発達だと思う。ただ自分を持ち出して説明するのが面倒だから言わなかったけど。ワコールさんの切磋琢磨の賜物だよ。

ひととようさんの歌詞が苦手って思うんだけど、最初にヒットした頃「ああなんかこの違和感…。」ってまだ歌詞をみたことがないうちに思っていたら、金紙銀紙の頃に桝野さんが「キー!」ってまくしたてていて、「あ、それだ。」って腑に落ちたものだった。ただあまりにも納得したから、ひととさんへのこの感覚はむしろ自分のものではなく桝野さんのものでそれに共感したに過ぎないのではないかともやもやしている。そういや、ひととさんが駄目で、椎名林檎はいいのかっていったら(ここ並べるのセンスない?センスってなに?)、どうもなんとも説明しがたく、好みだと言ってしまえばそれまでだけど。椎名さんのも我が強い言葉の表し方で、好き嫌いでいったら好きではないけど面白い。不快ではないけどしんどい。要は、我とかアクとか強い「演出」やら、逆に自然体って「演出」とか、どっちに振れていようが、みるこっちがわの受け方だからなあ。

と、以前の桝野さんと同様の言を知らん会社員の人のツイートにみかけ、「そうなのよね…」とアンニュイな気分でぼんやり思っていたのでした。ひととようがかななのは回避とかじゃなくて面倒。

あー、でも、一日そんなこと考えてたけど、切実さと作為はやっぱり違うねえ。

インタビューをさせてもらってたときのことを思い起こしても、普段なにかを話してもらうときも、人が何かを語ることについて批判的である姿勢も失ってはいけないとどこかでは意識しているけれど、それ以上にそれを語ってくれていることをありがたく思っている。私には私の目と耳がついていて私の頭がいろいろ処理してる。誰かの目や耳を通した記憶や思いを言葉でもらうというのは、私ひとりでは叶わないことを得るひとつの方法だもんで、ほんとにありがたい。そんでもって私には語れる話がないなあと気づく。殻が厚い癖に中に何も入っていない。だから語る人を尊敬する。皮肉ではなく、私なんぞにと。ありがたいと感じる中に功利的な自分を垣間見てなんかちょっとやだなとも思う。すごい当たり前のことを言っている。テヘペロ。